阪神・淡路大震災 -あの日から25年―
前夜就眠前、何とも表現し難い不気味で微妙な振動を断続的に体感していた。
1995年1月17日 午前5時46分。
闇を裂く地鳴りと大音響と共に、想像を絶する激しい揺れに叩き起こされた。
飛行機の墜落か?大爆発か?暗闇の中で突然襲った恐怖に頭は混乱し、錯乱状態に陥った。
激震ラインの真上であった。
薄暗い夜明けと共に目にしたのは、崩れた家、毛布をまとい道をさまよう人、
そして生き埋めになったひとの救助を求める叫び声・・・
私は、なす術もなく、茫然と立ち尽くしていた。
近くでは、火の手も上がり、恐怖と共に身の置き場を考える余裕さえなかった。
幸い薬局のビルは、大きな被害に至らず残った。しかしながら、薬局の中は足の踏み場もない状態。
OTCの棚は、すべて倒れ、あたり一面、ショーケースのガラスが飛び散り、
パソコンも飛んで床の上に落ち、薬歴簿も散乱。
調剤室の中は、水薬瓶が破損し液剤が流れ出し、散剤もばらまかれていた。
手のつけようもなかった。
その調剤室にたたずみ、まず最初に探し求めたのは、昨夜、お預かりした1枚の処方箋だった。
てんかんをお持ちの方で、『明日、お薬取りに来ますね』と帰った患者の処方箋。
この薬をどのようにお届けしようか?と頭がいっぱいだったことを今でも思い出す。
あの日から25年。
震災当時、処方箋受け取り率(医薬分業率)は全国平均で約20%、
そして今は、もう75%にも達する。
ほとんどの患者が街のかかりつけの薬局で処方箋を調剤してもらう時代になった。
当時、未曽有の大震災とも呼ばれ、我々も被災地の医療従事者として初めての経験の中、
出来る限りの支援活動を行った。
避難所が立ち上がり、救護所が設置され、医薬品集積所も設けられた。
全国から、全世界から多くの支援医薬品や支援物資も寄せられた。
そして、全国各地から多くの仲間が支援に訪れ、後に「ボランティア元年」とも呼ばれた。
今、振り返ると、様々な反省点や未整備の部分こそあったが、当時は当時で
皆の知恵や協力により、多くの貴重な体験や活動が展開された。
そしてこれらの積み重ねから我々は多くのものを得、次の時代へと繋げた。
様々な法の整備、医療支援の在り方、そして情報収集と提供の見直しと新たな整備、
ライフラインの途絶に伴う対応の見直しなど被災地における人々の医療や生活支援を
円滑に継続的に復興に向けた各ステージに合わせた支援の在り方の検討も重ねていくようになった。
25年という四半世紀がたった今もなお、毎年のようにあちらこちらで大きな災害が発生している。
文明が進化し産業の発展がもたらす地球環境のへの影響も
今、真剣に考え直さなければならない時代となった。
自然災害はもとより、人為的災害にも我々は目を向けなければならない。
多くの経験から得た貴重な体験から学び、備えることも忘れてはならない。
2020.1.17
日本災害医療薬剤師学会
会員 大川 恭子(兵庫県)